クリスマスは本当にキリストのものでしょうか?
なぜ、神は聖書にキリストの誕生日を記録されなかったのでしょうか?
じゃあ、12月25日は一体何でしょうか?
聖書はクリスマスについて何か語っていますか?
海外から来る祭りというのは、ハロウィンのように悪魔に関係しているものもあります。
クリスマスを祝うことは本当に安全でしょうか?
私たちはバアル崇拝をキリストの崇拝と関連付けていないでしょうか?
祭りのことを考えると、いろんな疑問が湧いてきます。
*2コリント6:15-18
15 キリストとベリアルとなんの調和があるか。信仰と不信仰となんの関係があるか。
16 神の宮と偶像となんの一致があるか。わたしたちは、生ける神の宮である。神がこう仰せになっている、「わたしは彼らの間に住み、かつ出入りをするであろう。そして、わたしは彼らの神となり、彼らはわたしの民となるであろう」。
17 だから、「彼らの間から出て行き、彼らと分離せよ、と主は言われる。そして、汚れたものに触れてはならない。触れなければ、わたしはあなたがたを受けいれよう。
18 そしてわたしは、あなたがたの父となり、あなたがたは、わたしのむすこ、むすめとなるであろう。全能の主が、こう言われる」。
上記の聖句では、キリストとベリアルとの調和は何ですか(15節)?
あるいは、異教徒を信じる者は、どのような部分を持っていますか?
そして、神の神殿は偶像とどのような一致を持っていますか(16節)?
あなたがたは生きた神の神殿と言われています。
それゆえ、彼らの中から出てきて、あなたがたは離れて、汚れたものに触れないでください、と主は言われます。そうすれば私はあなたを受け入れます(18節)、そして、あなたがたの父となり、あなたがたは私の息子と娘になります、と全能の主は言います。言い換えれば、分離しなければ、神の民になれないということになります。
この原則はクリスチャンにとっては、クリスマスに限りません。
現代の預言者は何と言っていますか?
『「クリスマスが近づいている」という声は、東西南北、世界中に響き渡っています。老若男女にとって、クリスマスは皆が喜び、大いに喜ぶ季節です。しかし、クリスマスとは一体何なのでしょうか。この日は、何世紀にもわたって重要視されてきました。不信仰な世界、そして一般的にキリスト教世界では、キリストが生まれた日として受け入れられています。世間一般がこの日を祝うとき、彼らはキリストに敬意を表しません。彼らはキリストを救世主として認めず、キリストの奉仕に進んで従うことでキリストに敬意を表すことを拒否します。彼らはこの日を優先しますが、この日を祝う目的であるイエス・キリストを優先することはありません。』(アドベンチストホーム、77課「クリスマス」英文)
『長い間12月25日はイエス・キリストの誕生の日とされ、その遵守は慣習的で人気があります。しかし、救い主の誕生の真の日を守っているという確実性はありません。歴史は私たちにこれの確かな保証を与えません。聖書は私たちに正確な時を与えていません。主がこの知識を私たちの救いに不可欠であると考えられたなら、彼は預言者と使徒を通して話し、私たちがその問題についてすべて知ることができるようにしたでしょう。しかし、この点に関する聖書の沈黙は、それが最も賢明な目的のために私たちから隠されていることを証明しています。
主はその知恵により、モーセを埋葬した場所を隠しました。神は彼を埋葬し、そして彼を復活させて天国に連れて行きました。この秘密は偶像崇拝を防ぐためでした。モーセが現役のときに人々が反抗し、人間が耐えられないほど挑発されたモーセは、死によって彼らから引き離された後、ほとんど神として崇拝されました。まさに同じ目的で、主はキリストの生誕日を正確に隠しました。その日が、世界の救い主であるキリストに与えられるべき栄誉を受けないようにするためです。キリストは、彼のもとに来る者すべてを完全に救うことができる方として、受け入れられ、信頼され、頼られるべき方です。魂の崇拝は、無限の神の子であるイエスに捧げられるべきです。』(同上)
クリスマスは世界中で軽薄で贅沢、大食いなどで過ごされているのではないでしょうか。年末年始は、クリスマスと新年に向けてかなりの出費が強いられます。この堕落した世代の習慣や慣習は、正しいことでしょうか。真のクリスチャンはどう考えるべきでしょうか。サタンは誘惑をしかけます。
例年の習慣として考えるのではなく、この季節は、神を敬い、賛美する機会とすることを考えてみられるのはどうでしょうか。ルカやマタイの聖句を読むとみ子が来られた時、イスラエル人たちは、メシアの到来を待ち望んでいました。しかし今日と同様にそれは、多くの人々にとってローマの圧政から逃れるための逃げ道でしかありませんでした。ごく一部の心のきよい人々にだけ、神は、その誕生を知らされなかったでしょうか?
人類の不幸な罪の束縛から解放するための、偉大なメシアが地上に来られた時、家畜小屋で生まれ、まぶねに寝かせられました。今日、清潔な産院で女性は出産します。何という差でしょうか。しかも、ヘロデはメシアの誕生を知った時、殺そうとして幼児虐殺をしました。これは最初のキリストのための殉教者となりました。
確かにキリストがこの地に来られたのは、キリストご自身の命を捨てるためでした。それは彼がこよなく愛されている人間を罪の束縛から救うためでした。天の王であられ、王権を傍に置き、王座も最高司令官としての立場を離れ、道徳力が弱り、罪によって堕落した人間を救うために、来られたのです。この季節、親はこのようなイエス様のお生まれになった背景を子供達に教え、贈り物や、供え物によって、お互いを敬い、神を賛美する、そのようなことを教える必要があるでしょう。
今日、多くの教会では、このような心からの動機からではなく、信者獲得のために、また自分たちの利己的満足のため、間違った動機でクリスマスが祝われています。人間とはお祭りが大好きなのですね。人々が集まってエンターテインメントがなされ、楽しかった、よかった、大勢の人に来てもらってよかった・・・・。それで、教会に留まる人や教会に足を運ぶ人は皆無なのです(EGWが書いていた)。毎年、教会のクリスマスに音楽を聴きに来たりする人はいるかもしれませんが、教会に来て学ぶということはありません。
興味深いことに、ある牧師はエンターテインメントを嫌っていました。彼はその虚しさや危険性を体験によって知っていたようです。つまり上記のEGWが言うとおり、子供も大人もエンタメでは教会に留まることはないということ。信者獲得には繋がらない無駄なことをしているというわけです。
もう一つ、クリスマスの時期に、貧しい人に何かを施すような自己犠牲の精神は、キリストの信者を自称する人々の心の中で弱まっています。「主が私に対してなさったすべての恩恵に対して、私は何をお返しすればよいのでしょうか」と感謝して尋ねる代わりに、キリストの血によって贖われたと主張はしても、自己満足に固執しているように見えます。
キリストの誕生日を記念して祝うと公言しているクリスマスでさえ、キリストとその栄光から心をそらす最も効果的な手段となっています。
つまり、キリストを称えるために選ばれた日が、多くの人々によって、自らを称え、喜ばせることに捧げられているということ。救世主を記憶に留めるために定められた日が、救世主を忘れ去るために費やされているのです。
さて、話はもどって、クリスマスの起源について、すでにご存知の方も多いと思います。
ネットサーフィンしていると、ちょうどいいサイトを見つけました。クリスマスとその起源について詳しく説明がありました。そこには、やはり、言わずもがな、異教徒からの祭りである根拠が書かれていましたので、リンクしました。
冒頭に書きましたパウロの言葉をよく覚える必要があるでしょう。
そもそもクリスマスという言葉自体がカトリックから来ているので、いかに世界が彼らに支配されているか背筋がぞっとします。しかも背後には悪魔サタンの働きがある訳ですから・・・・
アーメン!!
アクセスありがとうございます。
読者の皆様に特別の祝福がありますように
お祈りします。
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