前回は、終わりの来る前、神が預言者エリヤを送るという聖句を学びました。エリヤはすでに天にいます。彼は生きたまま天に上げられました。では、現代のエリヤは誰でしょうか?
ルカの聖句には、バプテスマのヨハネのことが次のように描かれています。
*ルカ1:17
彼はエリヤの霊と力とをもって、みまえに先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に義人の思いを持たせて、整えられた民を主に備えるであろう」。
そうです、マラキの聖句とにています。バプテスマのヨハネはキリストの初臨に備える働きをしました。さらにこれはキリストの再臨にも同じようなことが繰り返されることを意味しています。キリストの初臨の時、大多数の人々はキリストの初臨を認識しませんでした。またキリストは多くの人に拒否されたのです。
同様に再臨の前においても、多くの人は認識せず、メッセージも拒否するでしょう。
*ルカ9:30
すると見よ、ふたりの人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤであったが。
この聖句の場面は、イエスが変貌された時、モーセとエリヤがイエスを励ます為に地上にあらわれたのです。これはイエスの十字架という避けて通れない苦しみの杯を目前にして、謂わばその備えのためでした。EGWはエリヤのことを次のように表現していました。
『アダムの子らの中ではほかにただ一人しか与えられていない高い特権を与えられて死の力を受けなかったエリヤであった』。(各時代の希望、46章)
なぜモーセとエリヤはイエスの前に現れたのでしょうか。
モーセは義人のよみがえりの時に墓から出てくる人々を代表していました。
エリヤは死を見ないで天へ移された人々を代表していました。
この3名の会談は、『キリストを王とし、モーセとエリヤによる復活と死をみないで天へ映される人々の代表として未来の栄光の王国が縮図で示されたのであった。』(同上)
また、この会談の主題は、『主がエルサレムで死をとげられることである。人性の弱さに耐え、人類の悲しみと罪を負って、イエスはただ1人で人々の中を歩まれた。きたるべき試練の暗黒がイエスに迫った時、主はご自分を知らない世に孤独な気持でおられた。・・・・いま天は、イエスのもとに使者たちをつかわした。それは天使たちではなくて、苦難と悲しみに耐え、地上生涯の試練にあたって救い主に同情することのできる人たちであった。モーセとエリヤは、キリストの共労者であった。彼らは人類の救いを願われるキリストと思いを一つにしていた。』
エリヤは、「3年半の飢饉の間、国民の憎しみとわざわいに耐えた時、孤独な思いを味わった。彼はただ1人で、神のためにカルメル山上に立った。彼は苦悩と絶望のうちにただ1人で荒野へ逃げた。」
今日、世界の自称クリスチャンは、日曜日礼拝を続けるなら、自ら獣の刻印を押しているようなものです。現代はエリヤの時代と何ら変わることなく、歴史は繰り返されています。問題は、アドベンチスト教会がエリヤのメッセージ、すなわち、終わりの時の迫害とわざわいと来るべき死刑宣告(日曜休業令を受け入れないための死刑宣告)について語ることを容認しないということ。彼らは、エリヤのメッセージを受け入れたくないのです。エリヤを拒絶しているのです。耳障りのよいメッセージではないからです。日曜休業令によって妥協するものには獣の印(The Mark of the Beast, 略してMOB)が決まっています。
私たちは伝えることに努力していますが、すでに拒否する人もいます。
来年のいつかわかりませんが、プロジェクト2025が発令されれば、世界の人々は少しずつ目覚め、バビロンから出る人もあるでしょう。祈ることと、こうして毎日発信することしかできませんが、聖霊のお導きとお守りに感謝します。
今朝も、新しい情報がはいっています。
次回その情報もお分ちしたいと思います。
アーメン!!🙏
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