性格や習慣考え方も異なる者同士が幸福に暮らすためにはどうしたら良いのでしょうか。
日本は、カウンセリングシステムが遅れています。欧米諸国のようにこの点では、日本は非常に遅れていると感じています。家族関係はもちろんのこと、学校における不登校問題は、大元は家族に起因することが多いように思われます。
文科省では、数多くのスクールカウンセリングの設置を行なってはいる者の現況では、あまり活用されていないという結果になっています。つまりは役に立っていないということではないでしょうか。
米国の多くのクリスチャン家族は、公立私立の学校には入れないで、家族が聖書から教えたり、両親が生きるのに必要な事柄を教えています。悲しいかな、日本の歴史は残念ながら、強制の歴史でもありますので、人と違ったことをしていると白い目で見られたり、子供自身がみんなと同じことをしたいと願うようです。良い人間関係を築くにはどんなことが必要でしょうか。聖書には様々な教えがありました。
<人との接触に必要なこと>
人との接触において、自制、忍耐、同情といった素質が求められます。性格、習慣、教育などの背景が違っているために、物事の見方も違っていて、判断基準も異なるわけです。
人間の性質は弱く、無知であって、誤解しやすいものです。他人を評価する際には、注意深い態度が求められます。私たちは自分の行動が人の体験にどのような影響を及ぼすかほとんど分かりません。自分の言行は、自分ではごく小さいことのように思われても、もし、私たちの目が開かれるならば、善に至るか、悪に至るかの重大結果は、この自分たちの言動にかかっていることがわかるはずでしょう。
<責任者に対する考慮>
多くの人は、ほとんど重荷を負ったこともなく、真の苦しみを知らず、他人のために心を砕いたり、悩むことも少ない。そのため真に責任を負う者の働きが理解できないかもしれません。
例えば、父親の心労や苦労は子供にはわかりませんし、理解することもできません。しかし年を経て、自分も責任を持つようになると父親の生涯を振り返り、昔わからなかったことを理解するようになります。苦しい経験が知識を与えたのです。
多くの責任者の働きが理解されず、その骨折りも、死ぬまでその価値が認められないものなのです。そしてその人の重荷を他の人が取り上げ、かつてその人が遭遇していた困難に遭って初めてその人が信仰と勇気を試みられたかということを理解できるのです。体験は同情を教えるものです。
神は人間を責任ある地位に立たせ、失敗があった時にはそれを正し、またはその地位から覗く力を持っておられます。私たちは神に属する裁きのわざを人間が行わないように注意しなければなりません。(そのようなことをする人は僭越行為とみなされます。)
サムエル記から一つの例があります。
◾️サムエル記上24:4-6
4 ダビデの従者たちは彼に言った、「主があなたに告げて、『わたしはあなたの敵をあなたの手に渡す。あなたは自分の良いと思うことを彼にすることができる』と言われた日がきたのです」。そこでダビデは立って、ひそかに、サウルの上着のすそを切った。
5 しかし後になって、ダビデはサウルの上着のすそを切ったことに、心の責めを感じた。
6 ダビデは従者たちに言った、「主が油を注がれたわが君に、わたしがこの事をするのを主は禁じられる。彼は主が油を注がれた者であるから、彼に敵して、わたしの手をのべるのは良くない」。
サウルに対するダビデの行動の中には教訓があります。神の命令によってサウルは、イスラエルの王として油を注がれました。しかし不従順のためにその国は彼の手から取り上げられると神が言われたが、サウルに対するダビデの行為はなんと柔和で礼儀正しく、忍耐に満ちたものでしょう。ダビデの生命を求めて、サウルは荒野に行き、ダビデと兵士が隠れていた洞穴に一人で入ってきたのです。
救い主は、「人を裁くな、自分が裁かれないためである。あなた方が裁くそのさばきで、自分もさばかれ、あなた方が量るそのはかりで、自分にも量り与えられるであろう」と、戒められている(マタイ7:1-2節)。
間もなく生涯の記録が神の前に調べられることを記憶し、「すべて人をさばく者よ。あなたには弁解の余地がない。・・・・他人を・・・さばくあなたも、同じことを行なっているからである」とキリストが言われたことを覚えていなければなりません(ローマ2:1)。
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