イエスの最も偉大なことは何でしょうか?
それは、今日のタイトルにあるように、私たち罪人のために命を捨てられたことではないでしょうか。なぜ捨てられたのですか?
人々は、それは私たちの罪を贖うためですよ、と一言で片付けられるでしょう。
そのような人々は、ご自分の命を犠牲にするほどのキリストの崇高な深い愛についてどれほどわかっているのでしょうか。
たとえば見ず知らずの人が物を盗んで罪を犯したとします。極端な話ではあるのですが、彼の裁判官はその代償にあなたの命と引き換えにこの者を釈放します、そうしなければ、この者は死刑です、と判決を下します。
イエスがなさったことは、その見ず知らずの者の魂を愛して生かしたいと願われるゆえに、ご自分の命を差し出されたのです。
永遠の命をいただくため、神の印をいただくため、御国に入るためには、キリストのようにならなければ永遠の命はありません。しかしながら、天に移されるには、知ることが重要です。
前回のブログは、救われるための方法を書きましたが、今回は、キリストの精神を持つことの重要性について考察したいと思います。キリストは前回も書きました通り、救われるには、おきて(十戒)をまもるように、と言われています。ではキリストの精神を持つには、どのようにしたらよいでしょうか。
*ヨハネ17:3
「永遠の命とは、唯一の、まことの神でいますあなたと、また、あなたがつかわされたイエス・キリストとを知ることであります。」
永遠の命を得るには神と御子イエス・キリストについて知ることです。
*ヨハネ15:13
「人がその友のために自分の命を捨てること、これよりも大きな愛はない。」
これを言うことのできるお方は、それを自ら実践されたイエス・キリスト以外にはありません。見ず知らずの罪人である私たちのためにイエスは壮絶な十字架の死を全うされたのです。それは、イエスの私たちに対する熱烈な偉大な愛ゆえでした。
イエスは良い羊飼いであると語っておられました。良い羊飼いは羊のために命を捨てて守ります。
*ヨハネ10:11、15
11わたしはよい羊飼である。よい羊飼は、羊のために命を捨てる。
15 それはちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じである。そして、わたしは羊のために命を捨てるのである。
*ローマ5:7-8
7 正しい人のために死ぬ者は、ほとんどいないであろう。善人のためには、進んで死ぬ者もあるいはいるであろう。
8 しかし、まだ罪人であった時、わたしたちのためにキリストが死んで下さったことによって、神はわたしたちに対する愛を示されたのである。
エペソ5:2
また愛のうちを歩きなさい。キリストもあなたがたを愛して下さって、わたしたちのために、ご自身を、神へのかんばしいかおりのささげ物、また、いけにえとしてささげられたのである。
「これは、我々のための命の賜物という供え物である。それは、我々が神の望みの通りの者となるためである。すなわち、他の人たちが人の形であらわされたキリストを仰ぎ見て、神の素晴らしい構想を考え、キリストのようになりたいという願望を抱くように導かれるために、彼の品性の香り、純潔な思い、人としての清められたご生涯に表された神の属性を放つキリストの代表者ーしみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない者となるためである。(MS 159、1903年)」
「神の望みの通りの者となる」ということは、神の願いすなわち、「神はそのひとり子を賜わったほどに、この世を愛して下さった。それは御子を信じる者がひとりも滅びないで、永遠の命を得るためである」(ヨハネ3:16)のためでした。ローマ人への手紙でもパウロが言っている通り、ただ一方的な神の愛によります。
聖書の神はそのような愛の塊のような神です。それゆえにパウロの体験は、キリストの愛が強く迫る(2コリント5:14)と書くことができたのです。
初め神は、人類を永遠に生きる者としてお造りになりました。しかしサタンによって、人は神に背く者となりました。また神の御国には律法がありましたので、アダムもエバも知っていました。EGホワイトは、その初代文集の中で、他世界の住人の話を書いています。
それによると、彼らも地球人同様に、彼らの地には、二本の木が植えてあって、彼らはその善悪の知識の木が与えられても神の言いつけを守り、テストに合格しました。ですから永遠に生きている、ということでした。彼らは神の愛を理解しているからです。
『主は私に他世界の眺めを与えてくださいました。翼が与えられ、天使が私を都から明るく輝かしい場所まで連れて行ってくれました。その場所の草は青々と生い茂り、鳥たちは美しい歌をさえずっていました。その場所の住民はさまざまな大きさの人々がいて、気高く、威厳があり、愛らしかったです。彼らはイエスの姿をはっきりと体現し、彼らの表情は神聖な喜びで輝き、その場所の自由と幸福を表現していました。私は彼らのうちの一人に、なぜ彼らは地上の人々よりもずっと愛らしいのか尋ねました。「私たちは神の戒めに厳密に従って生きてきたので、地上の人々のように不従順によって堕落したことはありません」というものでした。それから私は二本の木を見ました。一つは都の命の木によく似ていました。両方の実は美しく見えましたが、片方は食べられませんでした。彼らは両方とも食べる力を持っていましたが、片方は食べることを禁じられていました。すると、私の付き添いの天使が私に言いました。「この場所では誰も禁断の木を味わったことはありません。しかし、もし食べたら、堕落するでしょう。」』(初代文集、39.3)
彼らの神の戒めに厳密に従って生きてきた、という言葉には、彼らが神を愛してその愛の動機から神の戒め十戒を厳密に守って従ってきた、と私は捉えています。私は、彼らは戒めが彼らを束縛するものではないことを理解していた、と読みます。イエスのような人々ばかりがそこには住んでいるのですから・・・・😍😍
イエスの尊い愛のすべてを私たちは知ることはできません。
パウロは次のことを教えています。
*ピリピ2:5-8
5 キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。
6 キリストは、神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべき事とは思わず、
7 かえって、おのれをむなしうして僕のかたちをとり、人間の姿になられた。その有様は人と異ならず、
8 おのれを低くして、死に至るまで、しかも十字架の死に至るまで従順であられた。
キリストの思いを持ち互いに行動で示すことです。そこに愛の動機があるならば、聖霊の助けにより可能となります。
神であられたのに、ご自分を低くされたイエス。自己放棄、自己犠牲の精神、死に至るまでの従順、鞭打たれても、つばをはかれても、頭蓋骨に達するほどのとげの痛みを与えられても、だまって耐えられたのは、誰のためだったのでしょう。十字架の釘打つ音、カーン!、カーン! 極限の痛みに耐えられたのは誰のためだったでしょうか。
・・・・このイエスの苦しみは、私たちのためでした。神のおきてをとことん守られた。
悪をされても、決して悪で返されません。静かに耐えられた。み父も耐えられた。愛する我が子が苦しみ抜いて死ぬ様子を見ることほど、親にとって身を切られるような辛いことではないでしょうか。・・・
サタンに証明しなければならなかった。神のおきては厳しすぎるという彼の訴えを覆すために。
この盃を飲み干すことが、み父の辛い辛いみ旨でありました。
しかし、愛が勝利した。
イエスに信仰を持っていると言う人は、上記のピリピの聖句を愛の動機をもって実践するならきっと成功すると思います。
自分では決してできません。しかし助け主である聖霊にお願いします。
主のみ名を褒め称えます!!!
アーメン!!🙏
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