終わりの時が刻一刻と近づいています。
最後の震い、最後の刻印が残りの民になされることについて考察したいと思います。
*ハガイ2:21-23
21「ユダの総督ゼルバベルに告げて言え、わたしは天と地を震う。
22 わたしは国々の王位を倒し、異邦の国々の力を滅ぼし、また戦車、およびこれに乗る者を倒す。馬およびこれに乗る者は、たがいにその仲間のつるぎによって倒れる。
23 万軍の主は言われる、シャルテルの子、わがしもべゼルバベルよ、主は言われる、その日、わたしはあなたを立て、あなたを印章のようにする。わたしはあなたを選んだからであると、万軍の主は言われる」。
これは再臨の時に適用されます。天だけでなく、地をも震われます。この場合の天は、22節の国々の王位のことです。
終わりの時には震われるものはすべてふるい、揺さぶったその後、何が残るかがわかります。それは正式に神の残り民を構成する人々です。私たちはこの預言の成就をみなければ誰が神の残りの民であるか、まだわかりません。しかしこの聖句は回復の祝福を含んでいます。
*ヘブル12:26-27
26 あの時には、御声が地を震わせた。しかし今は、約束して言われた、「わたしはもう一度、地ばかりでなく天をも震わそう」。
27 この「もう一度」という言葉は、震われないものが残るために、震われるものが、造られたものとして取り除かれることを示している。
ここで神は、残りのものを残すために、震われるようです。震われるものは砂をふるうようにふるいでふるわれます。動揺しても残る人は残ります。イエスとともに残ります。私はこのグループに残りの者として加わりたいです。現代の真理を知っている人が残る可能性は高いでしょう。
*アモス9:9-10
9「見よ、わたしは命じて、人がふるいで物をふるうように、わたしはイスラエルの家を万国民のうちでふるう。ひと粒も地に落ちることはない。」
10 わが民の罪びと、すなわち/『災はわれわれに近づかない、われわれに臨まない』と/言う者どもはみな、つるぎで殺される。
11 その日には、わたしはダビデの倒れた幕屋を興し、その破損を繕い、そのくずれた所を興し、これを昔の時のように建てる。
このことは眠っている教会員に適用できるでしょう。教会に所属し牧師の言う通りにしていれば、救われると考えている人がほとんどと思いますので、とても恐ろしいです。
真のセブンスデーは現代の真理を学んでいます。11節のその日とは、どの日ですか。
震われる日のことです。11節はイエスが言われていることです。回復を意味します。
しかしどんな適用でしょうか。
改宗した異邦人が数多く加わります。
*黙示録3:11
わたしは、すぐに来る。あなたの冠がだれにも奪われないように、自分の持っているものを堅く守っていなさい。
だから、イエスは黙示録3:11で、自分の持っているものを堅く保つように命じられました。更に使徒15章で確認することができます。
*使徒15:4
14 神が初めに異邦人たちを顧みて、その中から御名を負う民を選び出された次第は、シメオンがすでに説明した。
15 預言者たちの言葉も、それと一致している。すなわち、こう書いてある、
16 『その後、わたしは帰ってきて、倒れたダビデの幕屋を建てかえ、くずれた箇所を修理し、それを立て直そう。
17 残っている人々も、わたしの名を唱えているすべての異邦人も、主を尋ね求めるようになるためである。
18 世の初めからこれらの事を知らせておられる主が、こう仰せになった』。
神のみ名を負う民、すなわち神のみ名のために真の教会を取り出すことが強調されているのです。預言者たちの言葉も一致しています。
このことはまもなくやってくる日曜休業令で、獣の刻印が押されることによって明確になります。つまり、世との妥協です。土曜日礼拝をやめ、日曜礼拝の世の圧力に屈することを意味します。しかし屈しない人々がいるのです。そのことを意味します。屈しない人々が真の残りの民です。
*黙示録16:17
17 第七の者が、その鉢を空中に傾けた。すると、大きな声が聖所の中から、御座から出て、「事はすでに成った」と言った。
18 すると、いなずまと、もろもろの声と、雷鳴とが起り、また激しい地震があった。それは人間が地上にあらわれて以来、かつてなかったようなもので、それほどに激しい地震であった。
19 大いなる都は三つに裂かれ、諸国民の町々は倒れた。神は大いなるバビロンを思い起し、これに神の激しい怒りのぶどう酒の杯を与えられた。
教会から不純物が分離される時がきます。教会にいる人々は涙と籾殻として消えゆきます。
籾殻にはなりたくないでしょう。
イエスが初臨された時に起こったこととよく似ています。
イエスはエジプトへ逃げなければなりませんでした。イエスの迫害がありました。十字架の前に、ユダヤ人はどちらかを選ばなければなりませんでした。イエスか、バラバか。
彼らはどちらを選びましたか? 答えは言うまでもありません。
このことは、真の礼拝日か、それとも日曜礼拝か、の選択肢を意味します。
12人の弟子たちの一人もふるわれました。ユダはイエスを愛していましたが、お金の方をイエスよりも愛していました。しかも十字架以前にふるわれたのです。
『サタンはすべての魂をめぐって人生というゲームをしています...それがユダを破滅させたのです。ユダは常に自分の利益を企んでいました。この点で、彼は今日のキリスト教徒を自称する大勢の人々を代表しています。ですから、私たちは彼のケースを研究する必要があります。私たちは彼と同じくらいキリストに近いのです。しかし、ユダの場合のように、キリストと交わってもキリストと一体にならないのであれば...私たちはユダと同じように、サタンの誘惑の遊びであるキリストから外れてしまう危険にさらされています。{6T 264.2}』
すべての人がふるわれます。今日のSDA教会だけでなく、わたしたちのような、教会から離れた独立した伝道者たちとそのグループ、土曜日礼拝を固く守る人々はふるわれるのです。
*黙示録3:14
14 ラオデキヤにある教会の御使に、こう書きおくりなさい。『アァメンたる者、忠実な、まことの証人、神に造られたものの根源であるかたが、次のように言われる。
15 わたしはあなたのわざを知っている。あなたは冷たくもなく、熱くもない。むしろ、冷たいか熱いかであってほしい。
16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、あなたを口から吐き出そう。
ラオデキヤの「ラオ」は「人」を意味し、「デキヤ」とは、「決意、決断」を意味します。
今日のSDA教会は、ラオデキヤ教会と呼ばれています。なぜなら、なまぬるいからです。
しかし、黙示録3章の言葉を言われたのは、他でもないイエスでした。その方が16節にある通り、「あなたを口から吐き出そう。」と言われている訳ですから、このふるいが神がなさろうとしておられるご計画であることがわかります。1844年10月22日から
人々は決断の時代に生きているのです。キリストはずっとこの教会に声をかけ続けてこられました。しかし、それもやがて終えられる時がきます。
そのことは、執り成しがなされないことを意味します。父の前で拒むとは見放すことです。もう憐れみはありません。
*マタイ10:32
32 だから人の前でわたしを受けいれる者を、わたしもまた、天にいますわたしの父の前で受けいれるであろう。
33 しかし、人の前でわたしを拒む者を、わたしも天にいますわたしの父の前で拒むであろう。
さらに、彼らがなまぬるいのは、
*黙示録3:17
17 あなたは、自分は富んでいる。豊かになった、なんの不自由もないと言っているが、実は、あなた自身がみじめな者、あわれむべき者、貧しい者、目の見えない者、裸な者であることに気がついていない。
ここでまたユダ・イスカリオテを思い起こします。
なんの不自由もないということはイエスを必要としない、霊的飢え乾きもないということです。クリスチャンとしては、なんと惨めであわれむべき、貧しく盲目で裸なのでしょうか。
日々、ブログを書いていても、霊的飢え乾きがあります。毎朝、夫と共にデボーションを読んでいます。また毎朝個人で、聖霊のバプテスマの祈りをし、今日の献身を願い、夜には感謝と悔い改めをしています。それでも足りません。時間があれば、優秀な牧師たちの話を聞き、霊的渇きを補充したり、EGWからのあかしのふみによって補充しています。それでもまだ渇きます😅 しかし聖霊がともにいてくださいます。主を賛美します。
アーメン!!
アクセス感謝します。
祝福をお祈りします。
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