エレン・G・ホワイトの「終わりの時の出来事」を読むと、よくわかると思いますが、
神は、天へ迎えるための真のクリスチャンをふるうことを約束されています。
麦と毒麦の話です。マタイ13章に書かれています。
▪️マタイ13:24-30
24 また、ほかの譬えを彼らに示して言われた、「天国は、良い種を自分の畑にまいておいた人のようなものである。
25 人々が眠っている間に敵がきて、麦の中に毒麦をまいて立ち去った。
26 芽がはえ出て実を結ぶと、同時に毒麦もあらわれてきた。
27 僕たちがきて、家の主人に言った、『ご主人様、畑におまきになったのは、良い種ではありませんでしたか。どうして毒麦がはえてきたのですか』。
28 主人は言った、『それは敵のしわざだ』。すると僕たちが言った『では行って、それを抜き集めましょうか』。
29 彼は言った、『いや、毒麦を集めようとして、麦も一緒に抜くかも知れない。
30 収穫まで、両方とも育つままにしておけ。収穫の時になったら、刈る者に、まず毒麦を集めて束にして焼き、麦の方は集めて倉に入れてくれ、と言いつけよう』」。
イエスは、この譬えの後に、「畑は世界である」と言われています。
続く聖句は、次のとおり、
37 イエスは答えて言われた、「良い種をまく者は、人の子である。
38 畑は世界である。良い種と言うのは御国の子たちで、毒麦は悪い者の子たちである。
39 それをまいた敵は悪魔である。収穫とは世の終りのことで、刈る者は御使たちである。
40 だから、毒麦が集められて火で焼かれるように、世の終りにもそのとおりになるであろう。
41 人の子はその使たちをつかわし、つまずきとなるものと不法を行う者とを、ことごとく御国からとり集めて、
42 炉の火に投げ入れさせるであろう。そこでは泣き叫んだり、歯がみをしたりするであろう。
43 そのとき、義人たちは彼らの父の御国で、太陽のように輝きわたるであろう。耳のある者は聞くがよい。
これは非常に印象深い譬えです。
実物教訓には次のとおりに説明があります。
『「畑は世界である」とキリストは言われた。しかし、わたしたちは、これを世界の中にあるキリストの教会を意味するものと解釈しなければならない。このたとえは、神の国と人類を救済する神の働きに関するものであり、これは、教会によって行われるものである。たしかに、聖霊は、全世界に行きわたり、いたる所で人々の心に働かれるのではあるが、わたしたちが熟して、神の倉に収められるようになるのは、教会の中においてである。』(実物教訓、第4章)
これはどういう意味でしょうか。わかりやすい話があります。
『東の国々では、復讐のために、種をまいたばかりの敵の畑に、一見麦と少しも変わらない毒麦をまいたりした。それが麦といっしょに成長して作物を損ない、畑の持ち主に迷惑と損害を与えた。同様にサタ ンは、キリストに対する敵意から、天国の良い麦の間に悪い種をまき散らすのである。サタンは、自分が種をまいておきながら、それを神のイエスのしわざのようにみせかける。悪魔は教会内に、キリストの名はとなえるが、キリストの品性を受け入れない者を入り込ませて、神のみ栄えを汚し、救いの働きを誤り伝えて、魂を危険におとしいれるのである。』(同上)
という訳です。教会内には、必ず毒麦が撒かれて、とても信心深い様子の人々がいることでしょう。しかし、そのような人々と最後まで共に過ごさなければならない、というのです。
最後までというのは、毒麦が集められる世の終わりの時です。
困った兄弟姉妹たちが必ずいるので、本物のクリスチャンたちは気を揉みます。なぜ牧師が言わないのだろう、あれは、牧師の仕事なのに・・・あるいは牧師に直談判する人もいます。しかしそれは意味がないのです。神のご計画は最後まで、です。
では、終わりの時とはいつのことでしょうか。
『公然とした罪を犯して悔い改めない者は、教会から除外しなければならないことは、キリストが明らかに教えておられるところであるが、人の品性や動機までさばくことは、わたしたちにまかせられていないのである。キリストは、わたしたちの性質をよく知りぬいておられるから、こうしてさばくことはおまかせにならない。もしわたしたちがにせクリスチャンであると思う人々を教会から引き抜こうとするならば、必ず間違いをするにきまっている。・・・・・自分こそクリスチャンであると思っている者の多くが、最後には、量が不足していることに気づくことであろう。隣人たちからは、全然天国に入れるとは思われなかった人々が、多く天国に入ることであろう。人は外の形によって判断し、神は心を評価なさるのである。麦と毒麦とは、収穫までいっしょに成長する。そして、収穫というのは、恵みの時の終わりのことである。』(同上)
私たちは、本当に気をつけて学びの生活をすべきです。そうしなければ、自分が毒麦だった・・・という可能性もあるからです。終わりの時の収穫とは「恵みの時の終わり」すなわち、恩恵期間終了のことです。別の言葉で言うなら、七つの災害の直前です。
左の図は、当ウェブサイトの神のタイムラインからのスクリーンショットです。この期間には、本当の様々な出来事が起こります。
この「ふるいの時」というのは、教会の浄化が行われる時です。これは建物の教会だけを表すのではなく、主に個人に適用されると考えています。この期間、教会は二つに分離します。
後の雨(春の雨)の聖霊によって、神の印が押されます。それによって使徒の時代のペンテコステの時のように、福音は全世界に宣べ伝えられ、大勢の人々が目覚めてこの群れに加わるでしょう。
ですから、今このような知識を蓄えて、その時に備えなければならないのです。
米国は本当に厳しい時がやってくると推察しています。なぜなら、獣の像(プロジェクト2025)は、一般の学校でいずれ、日曜礼拝を強いられるからです。そのことについては、後のブログで書きたいと思います。何せ、米国の牧師たちの情報が早く、私の学びが追いつかない状態です。
昨日の日曜日は健康メッセージのためのクッキングクラスを行っていて、金曜、土曜日の夜(土曜日は日没後でなければ準備ができない)、そして日曜日は午後に戻りますが、すでに
米国のメッセージがいくつもアップデートされています。
また友人から非常に貴重な聖書研究のビデオも送ってきたので、それも聞きたかった。神はこのように豊かに祝福されています。
私のサイトには、世界からアクセスがありますが、本当に一人でも多くの兄弟姉妹が目覚めて、準備して欲しいと願っています。
もう一つ重要なことがありました。
『確かなことが一つある: サタンの旗の下に立つセブンスデー・アドベンチストは、まず、神の御霊の証に含まれている警告と戒めに対する信仰を捨てるだろう。—Selected Messages 3:84 (1903).
サタンの最後の欺きは、神の御霊の証しを何の効果もないものにすることである。「幻のないところでは、民は滅びる」(英文訳:箴言29:18)。サタンは、真の証しに対する神の残りの民の信頼を揺るがすために、さまざまな方法と機関を通して、巧妙に働くであろう。—Selected Messages 1:48 (1890). 』
以前のブログにも書きましたとおり、世界総会はイエズス会に乗っ取られ、総会の要所には彼らが存在し、牛耳っています。ロマリンダも、病院も、大学もです。証の文もところどころ、日本語では削除されている部分を見つけました。(これは聖霊の助けとしか考えられないほど偶然に見つけたのですが、本当に驚きました。)
少し前、日本では、ある教会の女長老が、キャンペーンを始めました。それは、「教団と牧師のための祈り」のリレーのようなものだったと思います。彼らは教団と牧師に絶対の信頼を置いているのでしょうか? この時期、米国では獣の像が形作られ、日曜休業令が見え隠れし、自分たちの命が危ないというのに、若い女性信徒をはじめこのキャンペーンに時間を費やし、お金を使い、私としては、非常に危険を感じた次第です。
EGWの預言では、牧師も(教会関係の)医者たちも大勢が背教します。・・・今牧師に絶対信頼を置いている気の毒な兄弟姉妹たち(日本人はほとんど)は驚くことでしょう。私としては祈るほかありません。
神のふるいの目的は、真の民と偽りの民を分けることです。麦と毒麦のふるいわけです。
『反対運動が起こり、偏見と不寛容が再び支配し、迫害が燃え上がれば、中途半端で偽善的な者は揺れ動き、信仰を捨てるだろう。しかし、真のクリスチャンは岩のように堅く立ち、その信仰はより強く、その希望は繁栄の時代よりも明るくなるだろう。—The Great Controversy, 602 (1911).
主の軍隊から次々と部隊が敵に加わり、敵の部隊から次々と人々が神の戒めを守る民と結びつくにつれて、旗は次々と塵の中に消えていった。—教会への証 8:41 (1904)』
預言に感謝します。この預言がなければ私たちはサタンに騙されるばかりです。
しかしながら、この毒麦の話の真意はそれだけではありません。最も重要なことが書かれています。
『毒麦は、麦の間で成長し、同じように太陽の光や雨に浴すことが許された。しかし、収穫の時には、「その時あなたがたは、再び義人と悪人、神に仕える者と、仕えない者との区別を知るようになる」とある(マラキ3:18)。天の家族とともに住む価値のある者がだれであるかを決定するのは、主ご自身である。主は、各自の言葉と行為によって、おさばきになる。口で言うことには、なんの値うちもない。運命を決定するのは、品性である。』
運命を決定するのが品性であるからこそ、
『キリストのたとえは、わたしたちが人をさばいたり、罰したりしないで、へりくだった気持ちを持って、自己過信におちいらないことを戒めている。畑にまかれた種が全部よい麦ではない。ただ教会の中にいるだけで、その人がクリスチャンだという証拠にならない。』
また、EGWは「やがて毒麦が、全部、麦になる日が来るということを、救い主は教えておられない。」とも書いています。
これは毒麦は毒麦のままということでしょうか。あるいは、善良な信徒たちの態度によっては、少しの毒麦が麦になる可能性はあるという意味も含んでいるのでしょうか。自然界では決してそのようなことは起こり得ません。???
キリストの十字架の旗のもとに主の軍隊の兵士となり、最後まで試練に打ち勝てますように心よりお祈り致します。
アーメン!!
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