神のなさることは実に美しいと言わざるを得ません。・・・・・
私の娘は信仰の告白はしたものの、事情によってバプテスマを受けずに若くして亡くなりました。しかもその理由は私にありました。すでに娘は結婚して子供もいました。
もう、10年以上も前の話です。牧師を疑ったわけではありませんが、狭い部屋にて、男性牧師と若い女性が二人きりで聖書研究する状況に私は耐えることができませんでした。サタンはどこにどう悪を働くかわからないからです。用心に用心をするに越したことはありません。娘は10代の頃、いろんないじめや辛い出来事に遭遇し、精神的打撃を受けていて、トラウマもありましたが、幸にして結婚してやっと立ち上がったばかりでした。
でも、私と神との関係で、聖書研究をやめるように娘に言って、やめてもらいました。
娘が亡くなってしばらくして、その牧師に連絡し、当時のことを話しましたが、今日私が得た答えは得られませんでした。
私は長い間、このことで苦しみました。
でも、やっと答えを得ることができたのです。
今日はそのことを含めてのイエスの愛あるバプテスマの重要性に付いて調べたいと思います。
まず、思い起こすのは、十字架の時、イエスの両脇に十字架にかけられた犯罪人の一人のこと。
❇️ルカの聖句を読んでみます。ルカ23:39-43
39 十字架にかけられた犯罪人のひとりが、「あなたはキリストではないか。それなら、自分を救い、またわれわれも救ってみよ」と、イエスに悪口を言いつづけた。
40 もうひとりは、それをたしなめて言った、「おまえは同じ刑を受けていながら、神を恐れないのか。
41 お互は自分のやった事のむくいを受けているのだから、こうなったのは当然だ。しかし、このかたは何も悪いことをしたのではない」。
42 そして言った、「イエスよ、あなたが御国の権威をもっておいでになる時には、わたしを思い出してください」。
43 イエスは言われた、「よく言っておくが、あなたはきょう、わたしと一緒にパラダイスにいるであろう」。
43節で、この犯罪人に天へ行く保証を与えてくださった。確かにこの状況では彼はバプテスマなど受けることはできません。
なぜ、イエスはこの犯罪人にこのように言うことがおできになったのでしょうか。
まず、神は私たちがチリであることを覚えておられます。
ダグ・バチェラー牧師のコメントより。
❇️詩篇103:14
主はわれらの造られたさまを知り、われらのちりであることを覚えていられるからである。
もう一つ
❇️エゼキエル33:15
すなわちその悪人が質物を返し、奪った物をもどし、命の定めに歩み、悪を行わないならば、彼は必ず生きる。決して死なない。
これらの聖句の答えとして次のようなコメントがありました。
『エゼキエル33:15で主がご自分の民に指示されているように、十字架上の盗人も盗んだものを元に戻さなかった。神は私たちにできることに責任を持たせるが、「ちり 」の限界も認めておられる。物理的に不可能なことは要求されない。盗人が十字架から降りることができたなら、洗礼を受けただろう。できる人は誰でもバプテスマを受けるべきです。』(ここまで)
娘の場合、あの牧師には申し訳ありませんが、彼が道徳的に鈍感な人であったことが挙げられます。我が教会の牧師たちの道徳的レベルの低さを私は懸念したのです。そこがサタンの目の付け所だからです。牧師が道徳的なことをよく学んだ人であるならば、もう一人どなたか姉妹を研究に招待し、安心できる状況で研究ができたはずです。しかしながらこの段階では私は牧師に進言できなかった。だからと言って私は牧師を責めたりする気持ちは全くありません。
あの状況で、「神は私たちにできることに責任を持たせるが、「ちり 」の限界も認めておられる。物理的に不可能なことは要求されない。」の条件が適用できるのでは、と思います。夫にも話しましたが、夫も状況を理解しています。また
キリストのバプテスマについても、それが不可能な人々のために、イエスのバプテスマが包含している、という話もある牧師から聞いています。これも贖いの奥義の一つではないだろうか・・・と思います。
アドベンチストホームの55章には「道徳基準」について書かれています。全てをご紹介できませんが、男女に関する事柄は老いも若きも非常に高い神の基準が書かれています。クリスチャンは世と違って神の清々しい基準であるべきなのです。世と違っていなければ、真のクリスチャンとは言えないでしょう。
以上の点が神のなさることは美しいと思わざるを得ない点でした。どんなことがあっても賛美する理由です。
❇️水のバプテスマの意味
水のバプテスマはイエスにあって死んで新生したことの象徴です。これが救いの保証ではありません。言わば、成人式のようなものです。
ローマ6:4-6
4 すなわち、わたしたちは、その死にあずかるバプテスマによって、彼と共に葬られたのである。それは、キリストが父の栄光によって、死人の中からよみがえらされたように、わたしたちもまた、新しいいのちに生きるためである。
5 もしわたしたちが、彼に結びついてその死の様にひとしくなるなら、さらに、彼の復活の様にもひとしくなるであろう。
6 わたしたちは、この事を知っている。わたしたちの内の古き人はキリストと共に十字架につけられた。それは、この罪のからだが滅び、わたしたちがもはや、罪の奴隷となることがないためである。
『バプテスマは、キリストの死、葬り、復活において、信者がキリストと一体化することを表している。この象徴は深い意味に満ちている。洗礼では、死と同じように目を閉じ、息を止める。そして水に葬られ、水の墓からキリストにあって新しい命へと復活する。水から引き上げられると目は開き、信者は再び呼吸を始め、友人たちと交わる。キリスト教と他のあらゆる宗教との大きな違いは、キリストの死、埋葬、復活である。この3つの行為によって、神が私たちに望んでおられるすべてのことが可能になる。この3つの重要な行為を時の終わりまでクリスチャンの心の中に生き続けるために、主は記念として浸礼によるバプテスマを制定された。他の形のバプテスマには、死、埋葬、復活の象徴はない。浸礼だけが、その意味を満たすのである。』
❇️聖霊のバプテスマ。これは世の終わりに関して特に重要です。ダグ・バチェラー牧師からです。
『 毎日世界中で約44,000回の雷が発生し、1分間に6,000回地球に落雷している。平均的な稲妻のストロークの長さは6マイルで、弾丸の約3万倍の速さで移動する。雷の温度は華氏50,000度に達することもあり、これは太陽の表面よりも熱い!さらに、稲妻はオーシャンライナーを6フィート宙に浮かせるのに十分なパワーを持っている。
ポジティブ・ジャイアント」とは、実際の雷雨から最大20マイル離れた地面を直撃する落雷のことである。晴れた空から落ちたように見えるため、「青天の霹靂 」として知られている。これらの閃光は、嵐の頂上「金床」と地面の間に落ち、通常の稲妻の数倍のエネルギーを持つ。
また、稲妻は同じ場所に2度落ちることはないという俗説もある。例えば、エンパイア・ステート・ビルの頂上では、年間平均20回以上の落雷がある。同じように、聖書は聖霊が終わりの日にペンテコステの日と同じ光と力を持って再び教会に臨むと預言している。』
しばしば毎日聖霊のバプテスマを受けなさいと言われますが、本当に日々必要です。それによらなければ聖書の学びもうまくできないでしょうし、日々生活の問題に対処するためにも聖霊による導きが必要だからです。
特に終わりの時、使徒たちの時代のペンテコステの時のような、非常に強い聖霊が臨む必要があります。聖霊のバプテスマは、日々のバプテスマと違い、上記に書かれているような同じ光と力があるものです。弟子たちが変化し、癒しの力を受け世界に大きな変革をもたらしました。1日に三千人もの人々が加わるほどの力です。それだけでなく、更に福音は世界へひろがていったのです。
これについても、もう少し深堀する必要がありますので、
次回続きを書きたいと思います。
Commenti