ヨハネ9章の生まれつきの盲人の話は非常に深い。イエスの言葉遣いも、こられた目的も、
とにかくヨハネの福音書を読むと、イエス!イエス!イエス!、光!、栄光! イエス・キリストに対する非常に強い印象、驚嘆、感謝と賛美があったに違いないと推察します。
光と闇があの時あった。ヨハネはその大きな違いを全身全霊で感じ取っていたに違いないと思います。あれほどの奇跡やしるしをおこなわれたのに、多くのパリサイ人たちは、イエスを天来の神の子と認めなかった。彼らはイエスの真理によって頑なさが暴露されました。
『イエスが真理を語られたということ、しかも確信をもって語られたということが、彼がユダヤ人の指導者たちに受け入れられなかった理由であった。自分自身を義人とするこれらの人々を怒らせたのは真理であった。真理は誤謬の欺瞞性をばくろした。真理は、彼らの教えと慣習とを非難したので、歓迎されなかった。彼らは自分たちが誤っていたということを謙遜に告白するよりは、むしろ真理に対して目をつぶっていたかった。彼らは真理を好まなかった。たとえ真理であっても、彼らはそれを望まなかった。』(各時代の希望、916)
さて、イエスが弟子たちと歩いておられると、盲人がいて、弟子たちが、イエスに尋ねた。
2「先生、この人が生れつき盲人なのは、だれが罪を犯したためですか。本人ですか、それともその両親ですか」。
3 イエスは答えられた、「本人が罪を犯したのでもなく、また、その両親が犯したのでもない。ただ神のみわざが、彼の上に現れるためである。
4 わたしたちは、わたしをつかわされたかたのわざを、昼の間にしなければならない。夜が来る。すると、だれも働けなくなる。
5 わたしは、この世にいる間は、世の光である」。
ここで不思議なのは、イエスが、弟子たちの質問に対して、肯定も否定もされなかったことです。申命記では祝福と呪いの言葉が書かれています。そこを読むと神は、聞き従わない場合、病を送ると書かれています。ですから、ユダヤ人たちの間では、障害者や病気の人々は罪人として扱われていました。それは彼らにとって多大な重荷となっていたのです。イエスから癒してもらった人々はどんなにか、喜んだことと思います。重荷がなくなったわけですから。ユダヤ人たちは、モーセの律法を曲解していました。
『罪はこの世で罰せられると、ユダヤ人は一般に信じていた。あらゆる苦難は、苦しんでいる本人か、あるいはその両親が何か悪いことをした罰だと考えられていた。なるほどあらゆる苦難は神の律法を犯した結果であるが、この事実は曲解されていた。罪とそのすべての結果の張本人であるサタンは、病気と死は神から出るもの、すなわち罪の故に神が勝手に人に課せられる罰であると人々に考えさせていた。だから何か大きな苦難やわざわいに見舞われた人は、大罪人としてみられるという余計な重荷まで負わされた。』(各時代の希望 917p)
いかにユダヤ人たちが暗黒の中に生きていたかがわかります。この暗黒の中に光をもたらされたのがイエスでした。
確かに神の掟を守らないなら、さまざまな問題が起こります。初めからそれは神が約束されていました。しかしイエスとしては、そのような事柄で議論するよりも、希望となる言葉を与えられました。イエスにより癒された人々は、イエスに神を見るのです。なぜならそこに神の栄光が現れるからです。
『罪と苦難との関係についてのユダヤ人の信念は、キリストの弟子たちのうちにもあった。イエスが、彼らの誤りを正された時、主は、その男の苦難の原因を説明しないで、その結果をお告げになった。すなわちその苦難の故に神のみわざがあらわされるというのである。「わたしは、この世にいる間は、世の光である」とイエスは言われた(ヨハネ9:5)。それからイエスは、その盲人の目に泥を塗り、シロアムの池に行って洗わせられた。するとその男の視力が回復した。このようにしてイエスは、弟子たちの質問に実際的な方法でお答えになったが、好奇心から出た質問にはたいていこんな答え方をされた。弟子たちは、だれが罪を犯したとか犯さなかったとかいう質問を議論するのでなく、盲人に視力をお与えになった神の力と恵みを理解するように求められた。どろや、盲人が洗いに行かされた池にいやしの力があったのではなく、その力はキリストのうちにあったことは明らかであった。』
ベテスダの池においては、池に癒しの力があったことが信じられていました(ヨハネ5:1-4)。
両方の池で、イエスはしるしをおこなわれ、病人を癒やされ、盲人を癒やされました。力があるのはキリストです。
さて、9章では、この盲人の奇跡により、イエスに対する論争が起こりました。
6 イエスはそう言って、地につばきをし、そのつばきで、どろをつくり、そのどろを盲人の目に塗って言われた、
7 「シロアム(つかわされた者、の意)の池に行って洗いなさい」。そこで彼は行って洗った。そして見えるようになって、帰って行った。
8 近所の人々や、彼がもと、こじきであったのを見知っていた人々が言った、「この人は、すわってこじきをしていた者ではないか」。
9 ある人々は「その人だ」と言い、他の人々は「いや、ただあの人に似ているだけだ」と言った。しかし、本人は「わたしがそれだ」と言った。
10 そこで人々は彼に言った、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」。
ヨハネは目撃したことを書いていますが、人々の驚きは2種類あります。そして、当然起こる質問は、「では、おまえの目はどうしてあいたのか」です。
11 彼は答えた、「イエスというかたが、どろをつくって、わたしの目に塗り、『シロアムに行って洗え』と言われました。それで、行って洗うと、見えるようになりました」。
12 人々は彼に言った、「その人はどこにいるのか」。彼は「知りません」と答えた。
13 人々は、もと盲人であったこの人を、パリサイ人たちのところにつれて行った。
14 イエスがどろをつくって彼の目をあけたのは、安息日であった。
15 パリサイ人たちもまた、「どうして見えるようになったのか」、と彼に尋ねた。彼は答えた、「あのかたがわたしの目にどろを塗り、わたしがそれを洗い、そして見えるようになりました」。
16 そこで、あるパリサイ人たちが言った、「その人は神からきた人ではない。安息日を守っていないのだから」。しかし、ほかの人々は言った、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」。そして彼らの間に分争が生じた。
13節で人々は盲人だった男をなぜパリサイ人のところへ連れて行ったのでしょうか。
論点は、「なぜ見えるようになったか」ということだったのでしょうか。
人から人へ疑問が伝わったのですが、本人には確信があります。
しかし、安息日を守らないから、神からの人ではない、また、罪のある人がどうしてそのようなしるしを行うことができようか、という紛争が起きました。
『パリサイ人たちは、イエスが罪人であって、メシヤではないということを言いたかったのである。彼らは、盲人をいやしたお方が、安息日をつくってそのすべての義務を知っておられるお方であることを知らなかった。彼らは、安息日を守ることにはふしぎなくらい熱心にみえたが、それにもかかわらずその日に殺人を計画していた。だが多くの者は、この奇跡のことを聞いて非常に心を動かされ、盲人の目をあけたお方がただの人間ではないことを確信した。イエスは安息日を守られなかったから罪人であるとの非難に対して、彼らは、「罪のある人が、どうしてそのようなしるしを行うことができようか」と言った(ヨハネ9:16)。』(同上 919)
この後、パリサイ人たちは、彼の両親を呼び、彼が生まれつきの盲人であるかどうかを尋ねることまでしました。
『自分は生れつき盲人であったのに目がみえるようになったのだと断言している当の本人がいるのに、パリサイ人たちは、自分たちの誤りを認めるよりはむしろ自分自身の目で見た証拠を否定したかった。それほど偏見は根強く、それほどパリサイ人の義はゆがめられていた。』(同上)
どうしても信じられない、あるいは信じたくなくパリサイ人たちは、この後、彼の両親まで呼び、生まれつきの盲人であったか、確かめ、どうして見えるようになったのか、とまたしても聞くに及びました。当然、両親が知るよしもなく、それよりも両親はパリサイ人を恐れていました。
17 そこで彼らは、もう一度この盲人に聞いた、「おまえの目をあけてくれたその人を、どう思うか」。「預言者だと思います」と彼は言った。
18 ユダヤ人たちは、彼がもと盲人であったが見えるようになったことを、まだ信じなかった。ついに彼らは、目が見えるようになったこの人の両親を呼んで、
19 尋ねて言った、「これが、生れつき盲人であったと、おまえたちの言っているむすこか。それではどうして、いま目が見えるのか」。
20 両親は答えて言った、「これがわたしどものむすこであること、また生れつき盲人であったことは存じています。
21 しかし、どうしていま見えるようになったのか、それは知りません。また、だれがその目をあけて下さったのかも知りません。あれに聞いて下さい。あれはもうおとなですから、自分のことは自分で話せるでしょう」。
22 両親はユダヤ人たちを恐れていたので、こう答えたのである。それは、もしイエスをキリストと告白する者があれば、会堂から追い出すことに、ユダヤ人たちが既に決めていたからである。
23 彼の両親が「おとなですから、あれに聞いて下さい」と言ったのは、そのためであった。
パリサイ人は盲人であった男に質問します。
24 そこで彼らは、盲人であった人をもう一度呼んで言った、「神に栄光を帰するがよい。あの人が罪人であることは、わたしたちにはわかっている」。
25 すると彼は言った、「あのかたが罪人であるかどうか、わたしは知りません。ただ一つのことだけ知っています。わたしは盲人であったが、今は見えるということです」。
26 そこで彼らは言った、「その人はおまえに何をしたのか。どんなにしておまえの目をあけたのか」。
27 彼は答えた、「そのことはもう話してあげたのに、聞いてくれませんでした。なぜまた聞こうとするのですか。あなたがたも、あの人の弟子になりたいのですか」。
28 そこで彼らは彼をののしって言った、「おまえはあれの弟子だが、わたしたちはモーセの弟子だ。
29 モーセに神が語られたということは知っている。だが、あの人がどこからきた者か、わたしたちは知らぬ」。
30 そこで彼が答えて言った、「わたしの目をあけて下さったのに、そのかたがどこからきたか、ご存じないとは、不思議千万です。
31 わたしたちはこのことを知っています。神は罪人の言うことはお聞きいれになりませんが、神を敬い、そのみこころを行う人の言うことは、聞きいれて下さいます。
32 生れつき盲人であった者の目をあけた人があるということは、世界が始まって以来、聞いたことがありません。
33 もしあのかたが神からきた人でなかったら、何一つできなかったはずです」。
34 これを聞いて彼らは言った、「おまえは全く罪の中に生れていながら、わたしたちを教えようとするのか」。そして彼を外へ追い出した。
35節以下は結論の部分です。
35 イエスは、その人が外へ追い出されたことを聞かれた。そして彼に会って言われた、「あなたは人の子を信じるか」。
36 彼は答えて言った、「主よ、それはどなたですか。そのかたを信じたいのですが」。
37 イエスは彼に言われた、「あなたは、もうその人に会っている。今あなたと話しているのが、その人である」。
38 すると彼は、「主よ、信じます」と言って、イエスを拝した。
39 そこでイエスは言われた、「わたしがこの世にきたのは、さばくためである。すなわち、見えない人たちが見えるようになり、見える人たちが見えないようになるためである」。
40 そこにイエスと一緒にいたあるパリサイ人たちが、それを聞いてイエスに言った、「それでは、わたしたちも盲人なのでしょうか」。
41 イエスは彼らに言われた、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう。しかし、今あなたがたが『見える』と言い張るところに、あなたがたの罪がある。
『天来の力のあらわれは、この盲人に肉眼の視力と霊的視力とを与えたが、それはまたパリサイ人を一層深い暗黒のうちに残した。聴衆の中のある者たちは、キリストのみことばが自分たちにあてはまると思って、「それではわたしたちも目が見えないのでしょうか」とたずねた(ヨハネ9:40)。イエスは、「もしあなたがたが盲人であったなら、罪はなかったであろう」と答えられた(ヨハネ9:41)。もし神が、あなたがたが真理を見ることができないようにされたのだったら、あなたがたの無知に罪はない。しかし今あなたがたは見えると言う。あなたがたは自分は見えると信じて、目の見える唯一の方法をこばんでいる。自分の必要を認めるすべての者のために、キリストは無限の助けをもってこられた。だがパリサイ人たちは、必要を告白しようとしなかった。彼らは、キリストのみもとに行くことをこばんだ。だから彼らは、盲目のままにとり残された。その盲目は、彼ら自身の罪である。イエスは「あなたがたの罪がある」と言われた(ヨハネ9:41)。』(同上)
アーメン!!
祝福をお祈りします。
Commenti