前回は、神の印、獣の印がそれぞれ体のどこに押されるかの詳細や概要について調べました。日本語では、神の印も、獣の印も「印」という言葉で書かれていますが、英語では、”Seal” と”Mark”に分けられています。特に”Seal”には、「封印」という意味があって、それは聖書では重要な意味を持ちます。
今回は、もう少し掘り下げます。
⚫️ 神の印(神の印章)、すなわち「神の封印」を理解する。
*口語訳の表記では、「神の印」と「獣の刻印」で表記されています。
*新共同訳では、「神の刻印」と「獣の刻印」と同じ「刻印」という言葉で表記されています。
*説明をするのに、ここでは「神の印章」を使いたいと思います。
前回のブログから、神が私たちの心に何を望んでおられるのか、少しご理解いただけたと思います。聖書は何度も何度も、神の掟、十戒、神のみ言葉に従うようにと述べていますが、神の印章は、心と思いと行動において神の戒めに従うことを意味します。
主は「教をわが弟子たちのうちに封じておこう」(イザヤ8:16)と言われています。「わたしはあなたにむかって罪を犯すことのないように、心のうちにみ言葉をたくわえました。」(詩篇119:11)。
神の掟を守ることが、どのように封印となるのでしょうか。
印章は真正性を保証するものであり、公式の承認印です。印章は歴史を通じて使われてきたし、今日でも使われています。例えば、イギリスは2022年にチャールズ3世が即位した際に、その印章を更新しました。印章には通常、3つの主要な構成要素があります:
1. 公式の名前
2. 公式の役職の権限
3. 公式の領域
このような印章は、メド・ペルシャのダレイオス王によってダニエルの獅子の穴に押されました(ダニエル書6:17)。イエスの墓にも、ユダヤ総督ポンテオ・ピラトの名で印章が押されました(マタイ27:66)。神の印章は、人が神の天の王国の市民であることを認証することになるのです。
印章を構成する3つの要素すべてが、たったひとつの戒めの中に、それも十戒の中心にあることを知ったら驚かれるかもしれません。それは第四の戒めである安息日で、神への礼拝を司っています。また、「聖なる 」という言葉が出てくる唯一の戒めでもあります。: 『「安息日を覚えてこれを聖とせよ。六日間は働いてあなたのすべてのわざをせよ。七日目はあなたの神、主(の御名)の安息日である。七日目は、あなたがたの神、主(の御名)の安息日である。主は六日の間に天と地と海とその中にあるすべてのもの(主の領域 )を造られ、七日目に休まれた。それゆえ、主は安息日を祝福し、これを聖別された」(出エジプト記20:8-11)。』
安息日の命令は、神を宇宙の創造主として証明します。神はまた、この日を聖なるものにし、また私たちを聖なるものにされたいので、それは彼の聖化力のしるしでもあります。安息日がサタンの標的にされるのも不思議ではありません!
サタンの反逆は、神の権威を打倒し、天の玉座に座ることに基づいています(イザヤ14:12-14;エゼキエル28:2、6)。「獣に権威を与えた」のは、龍(黙示録12:9)で象徴されるサタンです(13:4)。獣と獣の印(Mark)の背後にある力は悪魔です。さて、国家の象徴であるこの獣の力(ダニエル7:17、23)が崇拝にどれほど関心があるかに注目してみましょう(黙示録13:4–8)。
これはサタンの反逆行為です。神を低めるために、悪魔は彼自身の法律、彼自身の権威、彼自身の性格を高揚させています。
「それから、その獣の像に息を吹き込んで、その獣の像が物を言うことさえできるようにし、また、その獣の像を拝まない者をみな殺させた。また、小さき者にも、大いなる者にも、富める者にも、貧しき者にも、自由人にも、奴隷にも、すべての人々に、その右の手あるいは額に刻印を押させ、この刻印のない者はみな、物を買うことも売ることもできないようにした。この刻印は、その獣の名、または、その名の数字のことである。」(黙示録13:15–17)。
この黙示録13章に登場する二つの獣というのは、海獣と陸獣、海から上ってきた獣と陸から登ってきた獣の二つのことを意味しています。獣の像とは、以前のブログでも書きましたとおり、礼拝を強制させるための基準となるもの、つまりプロジェクト2025のことを意味します。
それによって、人々は日曜日礼拝を強制させることになります。彼らに妥協することで日曜日礼拝をするならば、それが獣の印となります。
この終わりの時に、全世界の安息日を礼拝する真の神の民は、命が脅かされるようになります。安息日を守ることは、創造主の愛、生命、自由の律法への忠誠を示していることです。(マタイ22:37-40;ローマ8:2;ヤコブ1:25)。サタンの作った偽物の獣の法則に従うならば、それは罪の支配への忠誠を示すことになり、神に敵対することになります(ヨハネ8:44; 1ヨハネ3:8)。あなたはどちらを選択しますか?
⚫️聖霊によって印章を押される(封印される)。
今、人々は、こう尋ねているかもしれません。「どうすれば神に印を押してもらえるのでしょうか」。外面的な行いによってではないことは、私たちは確かに知っています。首に十字架を着けたり、本棚に聖書を置いているだけ、あるいは土曜日に教会に行くことでさえ、私たちが神のものになるということではありません。動機が重要なのです。
聖書はこう言っています。「もしキリストの御霊を持たない人がいれば、その人は神のものではない」(ローマ 8:9)。私たちが神に求めるとき、聖霊は「あなた方と共に住み、あなた方のうちにおる」(ヨハネ 14:17)と言っています。聖霊は個人の罪を悟らせ(16:8)、悔い改めに導き(ヨハネ第一 1:9)、次に神がその人の性格をキリストの似姿に変えることを可能にします(コリント第二 3:18)。
言い換えれば、聖霊は神の律法、すなわち肉となられた「言葉」であられるキリスト(ヨハネ 1:14)を私たちの心に書き記すのです。ダビデはこう書いています。「神よ、わたしのために清い心をつくり、わたしのうちに新しい、正しい霊を与えてください」(詩篇 51:10)。聖霊は、私たちが十戒に従って生き、キリストと同じ人生を送れるように力を与えてくださるのです(マタイ 5:17)。
2コリント1:21、22で、「あなたがたと共にわたしたちを、キリストのうちに堅くささえ、油をそそいで下さったのは、神である。神はまた、わたしたちに証印をおし、その保証として、わたしたちの心に御霊を賜わった」と書かれており、キリストにあってそのようになることがわかります。
エペソ1:13、14 「あなたがたもまた、キリストにあって、真理の言葉、すなわち、あなたがたの救の福音を聞き、また、彼を信じた結果、約束された聖霊の証印をおされたのである。この聖霊は、わたしたちが神の国をつぐことの保証であって、やがて神につける者が全くあがなわれ、神の栄光をほめたたえるに至るためである。」ということで、愛の神のご計画を伺い知ることができました。
再臨の例であるイエスの十人の処女のたとえ話を簡単に考えてみましょう(マタイ25:13)。10人の処女は2つのグループに分かれています。ランプに十分なオイルを持っている人とそうでない人の2つです。聖書では、油は聖霊の象徴です(1サムエル16:13;ゼカリヤ4:2–6)。十分な油を持っていなかった処女は、花婿と一緒に結婚式に参加することはできませんでした(マタイ25:10-12)。私たちはある程度聖霊を持っているかもしれませんが、もし花婿が私たちの心に完全にアクセスし、すべての罪を清め、限りなく私たちの中に住むことを許さなければ(ヨハネ3:34)、私たちはキリストと共に彼の天の王国に入ることはできないのです。(マルコ2:18-20、黙示録19:7、9.も参照してください。)
結論として聖書の基準に照らされて、徹底的な真のクリスチャンになった時に押されます。
無理〜と言われるかもしれませんが、イエスはマタイ5:48で、「完全になりなさい」と命じられています。無理難題を押し付けておられるのではありません。イエスは上記の聖句のような確証がおありだったからです。また全ては私たちが聖霊を受けることです。
⚫️ 後の雨に備える。
神の封印と獣の刻印は、世の終わりに試練の期間が終わる頃に完了します。神の民が封印される直前に、聖霊が全力で降臨し、後の雨と呼ばれる特別な出来事が起こると聖書は預言しています。
預言者ヨエルは、農業では作物の成長と収穫に不可欠な2つの大雨の期間として知られる、前の雨と後の雨について書いています(ヨエル2:23)。ヨエルは、これらの時期を「主の大いなる恐るべき日」(31節)の直前の特別な聖霊の注ぎ(28、29節)と並行させています。
使徒ペテロは、ペンテコステを前の雨と特定しました(使徒2:14–21)。後の雨はまだ来ていません。
ヨエルの預言では、聖霊は「すべての肉なる者」に(ヨエル 2:28)、地上に住むすべての人に注がれると述べられています。しかし、前の雨のときに何が起こったかを見てみましょう。聖霊の働きに「あっけにとられ」(使徒行伝 2:6)、また「驚き」(12節)、さらには「嘲笑っ」た(13節)人々がいました。つまり、そのような人々は前の雨が注がれたときにそれを受けなかったのです。同様に、すべての人が後の雨を受けるわけではありません。私たちが学んだことから、この聖霊の二度目の注ぎを拒む人は神の印を受けないことがわかります。私たちが終わりの時に生きていて、後の雨を受けないなら、天国に入るための印も受けないでしょう。
この「前の雨」を受けた人々は何をしたのでしょうか。
神の御言葉を学んだ(使徒10:44): 聖霊の務めの一つは、「あなたがたをすべての真理に導く」こと(ヨハネ16:13)ですが、もしあなたが聖霊にその機会を与えないなら、聖霊はどうやってその務めを果たせるでしょうか?(6:63も参照)。
祈り続ける(使徒1:14): 覚えておいてほしいのは、神は決してあなたの意志に反することを強制されることはないということです。聖霊をいただきたいなら、聖霊を求めてください!(ゼカリヤ10:1、マタイ7:7)。
従う決意がなければならない(使徒5:32): 聖霊なしに神に従うことはできませんが、自分の意志を神に委ねることはできます。(ヨハネ14:15-17も参照)。
礼拝に集まる(使徒4:31): これは、聖霊を受けるために他の信者といつも一緒にいなければならないという意味ではありません。むしろ、神の祝福が私たちに降り注ぐのは、私たちが共に神を敬う時なのです。(マタイ18:20、ヘブル10:24、25も参照)。
真理において一致していた(使徒行伝 2:1): プライド、嫉妬、恨みから生じる分裂は(コリント第一 3:3、ヤコブ 3:16)、聖霊を遠ざけます。慈悲深く、謙虚で、悔い改めた態度は聖霊を受け入れる場所を作ります(エペソ 4:30–32)。
弟子たちは聖霊に心の準備を整えてもらい、聖霊は彼らを聖霊を豊かに受け入れる用意をさせました。
⚫️今がその時です!!
これらの真理が今、重要でなくなるということはありません。今日の私たちの選択は、私たちがどのような人間になるかに影響します。これを読んでいる人の中には、イエスが再臨される前に墓に入る人もいるかもしれませんが、彼らも、ある意味では、神に忠実かサタンに忠実かのどちらかとして印を押されるでしょう。生きている間であろうと、世の終わりであろうと、誰もがこの決断を下します。
「今は救いの日です」(コリント人への手紙第二 6:2)、「あなたがたは、今日、だれに仕えるかを選びなさい」(ヨシュア記 24:15)。愚かな処女たちのように、自分の決断によって永遠の命を逃さないようにしてください。今日も、そして毎日、聖霊を心に招き入れてください。神の印を受ける準備を致しましょう。
アーメン!!
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