ヘブル書6章19節にあるこの言葉は、聖所と関連して考える必要があるようです。
*ヘブル6:19
「この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。」
何が魂を安全にし不動にする錨であるかというと、それは「この望み」です。
さらに、この希望は、「かつ「幕の内」にはいり行かせる」と言っています。
この希望というのは、6章全体にかかっています。
幕の内とは、至聖所をあらわしていますが、どうして、そこにはいることができるのでしょうか。
<成熟を目指す>
ヘブル6:1-3でパウロが言っていることは興味深いです。
「そういうわけだから、わたしたちは、キリストの教の初歩をあとにして、完成を目ざして進もうではないか。今さら、死んだ行いの悔改めと神への信仰、洗いごとについての教と按手、死人の復活と永遠のさばき、などの基本の教をくりかえし学ぶことをやめようではないか。 神の許しを得て、そうすることにしよう。」
パウロが言っているのは、いつまでも初歩の教理を学んでそこにとどまるなら、進歩はないよ、天へは行けませんよ、と言う意味です。このようなことを言う説教者はあまりいません。だからやはり聖書は自分で学ばなければならなりません。
パウロの目的は、聞く耳を持つ者たちが不動の錨をもって、揺るぎなく最後まで戦いを戦い抜き、天の御国へ行ってくださいというものです。
いつまでも乳を飲む赤子ではなく、成熟を目指して進歩してくださいということです。
しかし基本は重要です。それをないがしろにしろという意味では決してありません。
天を目指して前進しなさいという意味です。
<悔い改めが不可能な者?>4節ー6節
4 いったん、光を受けて天よりの賜物を味わい、聖霊にあずかる者となり、
5 また、神の良きみ言葉と、きたるべき世の力とを味わった者たちが、
6 そののち堕落した場合には、またもや神の御子を、自ら十字架につけて、さらしものにするわけであるから、ふたたび悔改めにたち帰ることは不可能である。
これはどういう意味でしょうか。パウロはどんな意味でいったのでしょうか。
パウロの聴衆はユダヤ人クリスチャンです。背教した者のことを言っているのでしょうか。
背教し、主に背を向けるならば、主は強制させるお方ではないので、主はどうすることもおできにならないでしょう。
続く7-8節にその説明が書かれています。
7 たとえば、土地が、その上にたびたび降る雨を吸い込んで、耕す人々に役立つ作物を育てるなら、神の祝福にあずかる。
8 しかし、いばらやあざみをはえさせるなら、それは無用になり、やがてのろわれ、ついには焼かれてしまう。
聖書で雨は聖霊を表します。土地は私たちの心です。聖霊という光、賜物にあずかりながら、別のものを生み出すならば、当然のこと、農夫はそのいばらやあざみしかはえない無用の土地をのろうでしょう。聖書で農夫は神のたとえがあるので、パウロの言い分は当然です。
<パウロの教会への励まし>
9節から12節は、パウロが教会に励ましを送っています。
9 しかし、愛する者たちよ。こうは言うものの、わたしたちは、救にかかわる更に良いことがあるのを、あなたがたについて確信している。
10 神は不義なかたではないから、あなたがたの働きや、あなたがたがかつて聖徒に仕え、今もなお仕えて、御名のために示してくれた愛を、お忘れになることはない。
11 わたしたちは、あなたがたがひとり残らず、最後まで望みを持ちつづけるためにも、同じ熱意を示し、
12 怠ることがなく、信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々に見習う者となるように、と願ってやまない。
当時の歴史的背景というものは、今よりももっと分裂や律法に関する問題があったようです。特に礼典律(動物の犠牲)の問題は激しかったようです。
キリストの十字架によって礼典律は廃止されなければなりませんでしたが、ユダヤ人クリスチャンであるばかりに、彼ら自身はそれを守るべきという思いもあり、教会内には不穏な空気があったのです。割礼の問題などもありました。
ですから、天の聖所に関する情報が必要だったのです。パウロは彼らを励まし、かつ約束の歴史と天の聖所で働いておられる大祭司イエスの情報をヘブル人への手紙で教えました。
12節で「信仰と忍耐とをもって約束のものを受け継ぐ人々」とは、使徒たちや大勢の模範者たちが存在していたことを意味します。これは今日の私たちにも彼らと同様、聖書を通して約束を受け継ぐ人々に見習う者となるなら、神の印を額にいただくでしょう。アーメン!!
<神の誓いによる保証>
ここで、パウロはアブラハムの契約の約束の保証について語っています。
13 さて、神がアブラハムに対して約束されたとき、さして誓うのに、ご自分よりも上のものがないので、ご自分をさして誓って、
14 「わたしは、必ずあなたを祝福し、必ずあなたの子孫をふやす」と言われた。
15 このようにして、アブラハムは忍耐強く待ったので、約束のものを得たのである。
16 いったい、人間は自分より上のものをさして誓うのであり、そして、その誓いはすべての反対論を封じる保証となるのである。
17 そこで、神は、約束のものを受け継ぐ人々に、ご計画の不変であることを、いっそうはっきり示そうと思われ、誓いによって保証されたのである。
契約ごとには、必ず保証が求められます。保証人や、担保などが求められます。アブラハム契約では、神以上のものがないために、ご自分に対して誓われました。神は約束を必ず果たされるお方であって、変更したりやめられたりはなさいません。
このアブラハム契約の例えを用いて、パウロは神の不変のご計画を彼らに示しました。
当時の多くのクリスチャンは、イエスの犠牲で礼典律の動物の犠牲が無効であることを理解していませんでした。もうじき、このエルサレムも神殿も滅ぼされる危険が迫っているのに、彼らの律法に対する執着心から、なかなか前進できなかったのです。このヘブル書が書かれたのは、西暦62年ごろです。ローマ軍がエルサレムを囲んだのは、西暦66年でしたので、パウロは幻を見せられたかもしれません。時間がなかったのです。結構、厳しい言葉を使って、クリスチャン成長を勧告しています。
今日も同様、時間がありません。獣の像はまもなく世界に現れると考えられます。すなわち、日曜日安息日を守るよう強制されるのです。今、聖書をよく学び、特にキリストに似た者となるようにということを目指さなければならないのです。神ご自身が誓われ救いの約束に対する確信を保ちましょう。
『パウロと側近の者たちは、モーセのしきたりや儀式を正しく評価し、それらが救済の計画を民に理解させるのに必要だということをよく洞察していた。』(スタディバイブルより)
<二つの不変の事がらとは?>
私が注目したのは、特に18、19節です。
18 それは、偽ることのあり得ない神に立てられた二つの不変の事がらによって、前におかれている望みを捕えようとして世をのがれてきたわたしたちが、力強い励ましを受けるためである。
19 この望みは、わたしたちにとって、いわば、たましいを安全にし不動にする錨であり、かつ「幕の内」にはいり行かせるものである。
20 その幕の内に、イエスは、永遠にメルキゼデクに等しい大祭司として、わたしたちのためにさきがけとなって、はいられたのである。
私たちの希望は復活と永遠の命です。これは確かに不動のものですが、
18節の「神に立てられた二つの不変の事がら」とは何でしょう。
これは17節を読むとわかります。つまり、アブラハムの約束は、神ご自身の誓いによって保証されました。この二つの不変の事がらとは、「神の約束」と「神の誓い」を意味します。それによって、望みを捕らえます。
この望みこそが信仰を不動のものとする錨となります。
「幕の内」にはいり行かせるもの」とは、年に一度の贖罪日が関係しています。つまりきよめです。
*レビ記16:15
「また民のための罪祭のやぎをほふり、その血を垂幕の内に携え入り、その血をかの雄牛の血のように、贖罪所の上と、贖罪所の前に注ぎ、」
*ヘブル9:7
「幕屋の奥には大祭司が年に一度だけはいるのであり、しかも自分自身と民とのあやまちのためにささげる血をたずさえないで行くことはない。」
パウロが教えていることは天の聖所にイエスが入られて、務めを行っておられることをヘブライ人に教えています。しかも、この幻は、1844年以降のことを意味します。
ダニエル8:14に関する聖所のきよめの預言の成就ですが、今大祭司は年に一度祭司が幕屋の奥の部屋に入って、清めを行ったように天の聖所で一度限りの清めを行っておられます。
そこに入れるというのです。
神のご計画は私たちが永遠の命を得ることです。
そのためには、私たちの体の聖所のきよめが必要です。このような学びは乳を飲むクリスチャン初心者では学ぶことができない。だから、6章の内容は進歩しなさい、というメッセージであると私は捉えています。パウロはユダヤ人クリスチャンに早く初歩の教理から卒業して次の段階へ進み、永遠の命の保障を得るように成熟しなさいと教えているのです。
これは今日の私たちにも十分適用される内容です。
年に一度の贖罪日には、民は心を悩まし、罪から離れる決意を促されました。そのようにしない者は民の中から滅ぼされたのです(レビ記23:29)。
まもなく嵐がやってきます。世と妥協することなく、最後までしっかりと信仰に立てるように願います。魂を不動のものとする錨のような希望への確信、また信仰と神への信頼を持ち続けましょう。
アーメン!!
アクセスを感謝します。
祝福をお祈りします。
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