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ホサナミニストリー
現代の真理/後の雨
後の雨(春の雨)
何を意味していますか。
「シオンの子らよ、あなたがたの神、主によって喜び楽しめ。主はあなたがたを義とするために秋の雨を賜い、またあなたがたのために豊かに雨を降らせ、前のように、秋の雨と春の雨とを降らせられる。」
ヨエル2:23
「だから、兄弟たちよ。主の来臨の時まで耐え忍びなさい。見よ、農夫は、地の尊い実りを、前の雨と後の雨とがあるまで、耐え忍んで待っている。」
ヤコブ5:7
「あなたがたは春の雨の時に、雨を主に請い求めよ。主はいなずまを造り、大雨を人々に賜い、野の青草をおのおのに賜わる。」
ゼカリヤ10:1
春の大雨を願いましょう。聖書では、雨は聖霊を表しています。先の雨(秋の雨)は、
ペンテコステの時に成就しました。つまり種まきです。後の雨は、収穫の雨です。
それによって使徒たちは、イスラエルの全土にそして諸国にまで伝道をしました。また、奇跡を行い、愛と憐れみ、慰めに飢えていた大勢の人々が癒やされ、彼らに加わりました。
使徒1章と2章を真剣にお読みください。ペテロが説教した後、1日に3000人もの人々が加わったと記録されています。キリストが昇天された後、彼らは何をしていたかというと、キリストの言葉通り、聖霊の降下をひたすら祈ったのです。それは10日間くらいでした。使徒たちはそれによって変革したのです。聖霊によって変えられ、力を与えられ、世界を変えるほどに働くことができました。
ペンテコステの時は、エルサレムの全土から、あらゆる国々から宗教の祭りを祝うために信仰ぶかいユダヤ人たちが集まっていました。言葉も違いましたが、聖霊によりあらゆる言葉を語るようになったのです。その結果は2章に書かれている通りです。
★使徒1:6-8
4 そして食事を共にしているとき、彼らにお命じになった、「エルサレムから離れないで、かねてわたしから聞いていた父の約束を待っているがよい。
5 すなわち、ヨハネは水でバプテスマを授けたが、あなたがたは間もなく聖霊によって、バプテスマを授けられるであろう」。
6 さて、弟子たちが一緒に集まったとき、イエスに問うて言った、「主よ、イスラエルのために国を復興なさるのは、この時なのですか」。
7 彼らに言われた、「時期や場合は、父がご自分の権威によって定めておられるのであって、あなたがたの知る限りではない。
8 ただ、聖霊があなたがたにくだる時、あなたがたは力を受けて、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地のはてまで、わたしの証人となるであろう」。
9 こう言い終ると、イエスは彼らの見ている前で天に上げられ、雲に迎えられて、その姿が見えなくなった。
キリストの約束を待っている時の状況が詳しく描かれている預言者の幻の記録をお読みいただきたい。彼らから学ぶならば、後の雨に与る助けになると思います。
非常に感動的な使徒たちの様子はこちら。➡︎「聖なる霊下る」
今回の後の雨(春の雨)は、使徒たちの時代のように、1箇所ではありません。世界に散らばっている残りの民全てに降下するのです。全地球規模で二度とない、最初で最後の春の大雨が降ります。
なぜ重要ですか。
「先の雨(秋の雨)は日ごとに信者の心を満たし、罪に勝利を与え、キリストの義でおおうところの聖霊の改変力です。
春の雨はあかしをする力です。春の雨は、神の忠実な残りの民に、説得力をもって第三天使の大いなる叫びをあげる準備をさせます。その時、世界の目は、神の戒めを守る人々に集中します。
その時、神の民は神の愛をあらわし、神の品性、すなわち神の栄光をあらわします。こうして彼らは、仲保者なしで最後の7つの災いがくだる間、立ち得る準備ができます。全人類が2つのグループに分けられる時が近づいています。獣のしるしを持った者と、額に神のみ名を持った者とに分けられます。」
神の印を受けたい人は、後の雨に着目し、日々注意深く生きなければなりません。時がくれば、命か死かに分けられるからです。
いつ起こりますか。
『セレクテッド・メッセージズ第1巻192ページ「聖霊がいつくだるか、すなわち、いつ大いなる天使が天からくだって、第三天使に加わり、この世界の働きを終了するかについては、はっきりした時がわたしにはわからない。わたしの言いたいことは、われわれはあかりを整えて火をともし、天からの慰めの時のために準備をしていることが唯一の安全なことであるということである。」
神の僕は、聖霊がくだる時がいつであるかを指示されませんでした。しかし、「悩みの時が始まるときに……『春の雨』すなわち主のみ前からの慰めの時が来る」と言われました(初代文集85、86ページ)。これは災いがくだる前の短い悩みの時です。』
いつになるかはわかりません。準備をしておくべきです。
神のタイムラインをご覧になり、今、自分たちがどこにいるかを覚えましょう。
後の雨を受けるために。
今が準備をする時です。
『教会へのあかし 第5巻216ページ「わたしたちが品性の衣を洗い、小羊の血によって白くしなければならないのは今である。わたしたちが誇り、情欲、霊的怠慢に勝利しなければならないのは今である。わたしたちが目をさまして、品性の均衡のとれた発達のために決定的な努力をしなければならないのは今である。『きょう、み声を聞いたなら、あなたがたの心を、かたくなにしてはいりない』われわれは、今、最も困難な立場にあって、目をさまして主の来臨を待っている。世界は暗黒の中にある。『しかし兄弟たちよ。あなたがたは暗やみの中にいないのだから、その日が盗人のようにあなたがたを不意に襲うことはないであろう』とパウロは言っている。兄弟がた、あなたがたは大いなる準備の働きにおいて何をしているか。世と妥協している者は、世の型を受け、獣の刻印を受ける準備をしている。自己に頼らないで神の前でけんそんに、真理に従って魂を清める者は、天の型を受け、彼らの額に神の印を受ける準備をしている。法令が発布されて印が押される時、彼らの品性は永遠に清く、しみのないものとなる。」
時は非常に遅い。遅らせてはなりません。イスラエルは、2週間で約束の国に行けたにもかかわらず、40年間も荒野をさまよいました。
神の民が春の雨を受ける準備ができた時に、神の働きは短時間に終了するのです。』
後の雨(春の雨)に与るために
具体的にはどのようにすればいいのでしょうか。
どんなことが関係しているのでしょうか。
キリストはどのようにお考えでしょうか。
「わたしが天から下ってきたのは、自分のこころのままを行うためではなく、わたしをつかわされたかたのみこころを行うためである。」ヨハネ6:38
「わたしをつかわされたかたは、わたしと一緒におられる。わたしは、いつも神のみこころにかなうことをしているから、わたしをひとり置きざりになさることはない」ヨハネ8:29
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ピリピ2:5「キリスト・イエスにあっていだいているのと同じ思いを、あなたがたの間でも互に生かしなさい。」
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フィリップス訳「あなたがたの取るべき態度については、キリストご自身をあなたの模範にしなさい。」
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彼を知るために265ページ「キリストはわれわれの手本であり、われわれが従うように与えられた完全な聖なる模範である。」
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各時代の希望 第3巻162ページ「人性をとられたキリストは神の力にたよられた。『わたしは、自分からは何事もすることができない』とイエスは言明された。」
わたしたちがラオデキヤの状態にあるとき、わたしたちは自分の必要を認めません。「何の不自由もない」と思っています。しかし、「人間にとって最大の危険は自己欺瞞に陥ることである。」(ミニストリー・オブ・ヒーリング 437ページ)。
祝福の山 65ページ「人々が自分たちの道を選ぶときはいつでも、神に敵対することになる。彼らは天の原則と戦っているのであるから、天のみ国にはいることはできない。」
使徒パウロは、キリストの模範に従い、次のように言いました。
「生きているのは、もはや、わたしではない。キリストが、わたしのうちに生きておられるのである。しかし、わたしがいま肉にあって生きているのは、わたしを愛し、わたしのためにご自身をささげられた神の御子を信じる信仰によって、生きているのである」(ガラテヤ2:20)。
そして彼は次のようにわれわれに勧めています。
「だから、飲むにも食べるにも、また何事をするにも、すべて神の栄光のためにすべきである」(コリント第1・10:31)。
神は心によって肉体を支配しようとしておられます。
サタンは肉体によって心を支配しようとしています。
「体は心の僕でなければならない。そして心は肉体の僕であってはならない」(教会へのあかし第1巻487ページ)
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以上は、手元にある「後の雨に備えよ」の本からピックアップしたものです。
私たちは、キリストが天の至聖所で奉仕しておられる間に、変革しなければ神の印を受けることができません。しかし、これまで学んだことを思い出して、最後まで忠誠を尽くすことのみです。
以前から、いつか役に立つだろうと思い、書籍を集めてきました。しかし、それら全てをここに書くことはできません。私の場合、牧師から基本教理をきちっと教えていただいたわけではなく・・・主人の仕事で米国、韓国、日本と異動が多かったので、自分で学ばざるを得なかったという事情もありました。しかし、必要な情報は、「キリストへの道」や「キリストの実物教訓」から十分に学べる、と思います。悔い改め、告白、献身、信仰、祈り、など全て必要ですが、大切な一歩は、キリストの必要を強く感じることではないでしょうか。
またキリストがみ父と一つであったように、私たちもキリストと一つになること。自分の考えで行うのではなく、キリストの模範に従う。最も顕著なのは、彼の祈りにあります。聖霊を求めることではないでしょうか。キリストが罪を犯されなかったのは、み父との交わりによってこの聖霊をたくさん受けられていたからです。
『あなたの心が、栄光に輝く神のことについての思いで満たされるようにしなさい。あなたの生活を、イエスの生涯にしっかりと結びつけなさい。やみの中から光が照りいでよと仰せになった神は、イエス・キリストの顔に輝く神の栄光の知識を明らかにするために、あなたの心を照らしてくださる。聖霊は、神に関することを明らかに示し、従順な者に生きた力を与えるのである。キリストは、あなたを、無限の神の門口に導いてくださるのである。あなたは、幕のかなたの栄光を見ることができる。そして、いつも生きていて、わたしたちのためにとりなしておられるお方の十分な力を、人々にあらわすことができるのである。』 (実物教訓12章)
知識が入ると、信仰は増すと思います。それによって考えが変わり、感情や自分が固執していた考えが壊され、み言葉とその原則に従いやすくなり品性は変えられます。聖霊のお導きに感謝です。
イエスは、旧約について「この聖書は、わたしについてあかしをするものである」(ヨハネ5:39)と言われましたが、新約についてはなおさらであります。私たちの永遠のいのちの希望はあがない主なる主にあります。聖書全体がキリストについて語っています、「できたもののうち、一つとしてこれによらないものはなかった」(ヨハネ1:3)という創造の最初の記録より「見よ、わたしはすぐにくる」(黙示録22:12)との最後の約束にいたるまで、私たちはキリストのみわざについて読み、キリストのみ声を聞くのです。もし、救い主を知りたいと思えば、聖書の研究にまさるものはありません。(「キリストへの道」ー神についての知識、希望p1965)
確かに、自分で探ることが最も理解に導かれる方法ではないでしょうか。
『ゼカリヤの預言には、サタンが神の民を訴えるのに対し、キリストが神の民の敵に対抗して立っておられることが示されている。「時に主は大祭司ヨシュアが、主の使の前に立ち、サタンがその右に立って、これを訴えているのをわたしに示された。主はサタンに言われた、『サタンよ、主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか。』ヨシュアは汚れた衣を着て、み使の前に立っていた」と預言者は言っている(ゼカリヤ3:1~3)。』
『神の民は、サタンの告訴に対して、自分の力では返す言葉がない。自分を振りかえってみれば、絶望するほかはない。しかし、彼らは助け主なるキリストの助けを仰ぎ、あがない主の功績にすがるのである。「こうして、神みずから義となり、さらに、イエスを信じる者を義とされるのである」(ローマ3:26)。神の子供たちは、神がサタンの非難を沈黙させ、彼の策略を失敗に終わらせてくださることを確信して、神に叫び求める。「どうぞ、わたしを訴える者をさばいてください」と彼らは祈る。そして、キリストは、大胆に訴えてくるサタンを、十字架の大議論によって沈黙させられるのである。』
このゼカリヤの聖句は端的に教えています。サタンは私たちの罪を指摘して、私たちはうなだれて絶望するしかありませんが、大弁護士であられるキリストは弁護されます。大祭司ヨシュアは私たちの代表として表されています。
苦難の時には私を呼べと言われています。アーメン!!
キリストの実物教訓14章ー祈りの能力からご紹介しましたが、この章の結びは次のような力強い約束が書かれています。
『「その時あなたの民を守っている大いなる君ミカエルが立ちあがります。また国が始まってから、その時にいたるまで、かつてなかったほどの悩みの時があるでしょう。しかし、その時あなたの民は救われます。すなわちあの書に名をしるされた者は皆救われます」(ダニエル12:1)。
屋根裏の部屋、あばらや、牢獄、処刑台、山々、荒野、地のほら穴、海の洞窟の中から、キリストは、ご自分の子供たちをお集めになる。地上にあって、彼らは貧しく、なやみ苦しんだ。また、サタンの偽りの要求に従わなかったために、恥辱をこうむって墓に下っていった者が、幾百万とあった。こうして、神の子供たちは、地上の裁判官によっては極悪の犯罪人であると宣告された。しかし、「神はみずから、さばきぬし」になられる時が近い(詩篇50:6)。その時に地上の判決はくつがえされる。「その民のはずかしめを全地の上から除かれる」(イザヤ25:8)。すべての者に白い衣が与えられる(黙示録6:11)。「彼らは『聖なる民、主にあがなわれた者』ととなえられ」る(イザヤ62:12)。
神の子供たちは、どのような苦難にあったにせよ、どのような損失を受けたにせよ、またどのような迫害をこうむったにせよ、あるいはまた、この世の生命を失ったにしても、そのとき、必ず十分な報いを受けるのである。彼らは、「御顔を仰ぎ見るのである。彼らの額には、御名がしるされている」(黙示録22:4)。 』ー実物教訓14章、祈りの能力。p1255.
アーメン!!🙏
白い衣は、キリストの義です。