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ホサナミニストリー
現代の真理/天の至聖所
贖いの最後の働きー
「1800年にわたって、聖所の第一の部屋において、この務めが続けられた。キリストの血は、悔い改めた信者のために嘆願し、彼らが赦され天父に受け入れられるようにしてきたが、しかし彼らの罪は、まだ記録の書に残っていた。型としての儀式において、1年の終わりに贖罪の働きがあったように、人類の贖いのためのキリストの働きが終わる前に、聖所から罪を取り除く贖罪の働きが行われるのである。これが、2300日が終了した時に始まった務めであった。その時に、預言者ダニエルが預言したとおり、われわれの大祭司は、彼の厳粛な働きの最後の部分を行うために、すなわち聖所を清めるために、至聖所に入られたのであった。
古代において、民の罪が、信仰によって罪祭の上におかれ、そしてその血によって、象徴的に地上の聖所に移されたように、新しい契約においては、悔い改めた者の罪は、信仰によってキリストの上におかれ、そして実際に天の聖所に移されるのである。 」(大争闘、23章 希望1799p)
「そして、地上の聖所の型としての清めが、それを汚してきた罪を取り除くことによって成し遂げられたように、天の聖所の実際の清めも、そこに記録されている罪を取り除くことによって、すなわち消し去ることによって、成し遂げられねばならない。しかし、これを完成するためには、だれが罪の悔い改めとキリストを信じる信仰によって、贖いの恵みを受ける資格があるかを決定するために、記録の書の調査がなされねばならない。したがって、聖所の清めには、調査の働き、すなわち審判の働きが含まれるのである。この働きは、キリストがご自分の民を贖うために来られる前に行われねばならない。なぜなら、彼が来られる時には、彼はすべての者に、それぞれの行為に応じて報いを与えられるからである(黙示録22:12参照)。
こうして、預言の言葉の光に従った者たちは、キリストは、2300日が1844年に終了した時に、この地上に来られるのではなくて、再臨に備えて贖いの最後の働きをするために、天の聖所の至聖所に入られたのだということを知った。 」(同上)
「また、罪祭が犠牲としてのキリストをさし、大祭司が仲保者としてのキリストを表す一方、アザゼルのやぎ は罪の張本人であるサタンを象徴していて、彼の上に、真に悔い改めた者たちの罪が最終的に置かれるのだ、ということもわかった。大祭司は、罪祭の血によって、聖所から罪を除去した時に、それをアザゼルのやぎの上においた。キリストが、彼の務めの最後に、ご自身の血によって、天の聖所からご自分の民の罪を除去される時、彼はそれをサタンの上におかれる。サタンは、審判の執行において、最終的な刑罰を負わねばならない。アザゼルのやぎは、人里離れた地へと追い払われ、イスラエルの宿営には2度と帰って来なかった。そのように、サタンは、神と神の民の前から永遠に追放される。そして、罪と罪人の最終的な滅亡の時に消し去られるのである。 」
(同上)
(*至聖所に関して最も重要なことは、私たちの罪の除去です。品性改革にはこの知識が必要です。義認についても、次のように描かれています。)
キリストの血による勝利ー
「人々は、地上の法廷の判決に深い関心を示すのであるが、しかしそれも、いのちの書にその名を記された人々が、全地の審判者の前で調査される時の天の法廷における関心とは、とうてい比較にならない。仲保者イエスは、彼の血を信じる信仰によって勝利したものがみな、その罪を赦され、再びエデンの家郷にもどって「以前の主権」を彼とともに継ぐ者となるように、嘆願されるのである(ミカ4:8)。サタンは、人類をあざむき、誘惑することによって、人類創造における神のご計画を挫折させようと考えた。しかし、キリストは今、人間が堕落しなかったかのように、この計画の実行を求められるのである。キリストは、ご自分の民のために、完全で十分な赦しと義認だけでなくて、彼らが、ご自分の栄光にあずかり、ともにみ座につくことを求められるのである。」(大争闘28章、希望1831p)
(*Note:「彼らが〜ともにみ座につくことを求められる」というのは、再臨以降のことなので、栄化のことを意味しています。)
『イエスは、彼らの罪の弁解はなさらないが、彼らの悔い改めと信仰を示して、彼らの赦しを主張なさり、天父と天使たちの前で、ご自分の傷ついた両手をあげ、わたしは彼らの名を知っている、わたしは彼らを、わたしのたなごころに彫り刻んだ、と言われるのである。
「神の受けられるいけにえは砕けた魂です。神よ、あなたは砕けた悔いた心をかろしめられません」(詩篇51:17)。そして、ご自分の民を訴える者にむかって、「サタンよ主はあなたを責めるのだ。すなわちエルサレムを選んだ主はあなたを責めるのだ。これは火の中から取り出した燃えさしではないか」と宣言される(ゼカリヤ3:2)。キリストは、忠実な人々に、 ご自分の義の衣を着せて、父なる神の前に「しみも、しわも、そのたぐいのものがいっさいなく、清くて傷のない栄光の姿の教会」として立たせてくださる(エペソ5:27)。彼らの名は、いのちの書に書きとめられる。そして彼らについて、「彼らは白い衣を着て、わたしと共に歩みを続けるであろう。彼らは、それにふさわしい者である」と記されているのである(黙示録3:4)。
こうして、新しい契約が完全に成就する。「わたしは彼らの不義をゆるし、もはやその罪を思わない。」「主は言われる、その日その時には、イスラエルのとがを探しても見当らず、ユダの罪を探してもない」(エレミヤ31:34、50:20)。「その日、主の枝は麗しく栄え、地の産物はイスラエルの生き残った者の誇、また光栄となる。そして……シオンに残るもの、エルサレムにとどまる者、すべてエルサレムにあって、生命の書にしるされた者は聖なる者ととなえられる」(イザヤ4:2、3)。』(同上、1831-1832)
(*Note:エペソ5:27の「勝利、清くて傷のない状態」というのが、品性が変えられたということです。またそのような人々の名前は、天のいのちの書に書かれているということを意味しています。このような状態の人々に、神の刻印が押されるでしょう。)
(*Note:「義認一般的に神学的に用いられる義認とは、「神が悔い改めた罪人を義と宣告される、すなわち、義とみなされる神聖な行為」のこと。義認は罪の宣告の反対。義認の根拠は、私たちの従順ではなく、キリストの従順です。「一人の義なる行為によって、いのちを得させる義が全ての人に及ぶのである。すなわち、・・・一人の従順によって、多くの人が義人とされるのである」(ローマ5:18-19)。主は「価なしに、神の恵みにより、・・・義とされる」(ローマ3:24)信徒に、この従順を与えられるのです。「わたしたちの行ったわざによってではなく、ただ神の憐みによって、・・・わたしたちは救われたのである」(テトス3:5-6)。」アドベンチストの信仰、208p. )
(*Note:「聖化ー真の悔い改めと義認は聖化をもたらします。義認と聖化は密接に関連しており、それぞれ別個のものでありながら、不可分のものです。この二つは救いの二つの局面を示しています。すなわち、義認が私たちのために神がしてくださることなら、聖化はわたしたちのうちに神がしてくださることなのです。・・・いずれも全く、ただキリストの恵みと義によるのです。義認は天国に入るわたしたちの肩書き、聖化は天国に入るわたしたちの資格です。」同上、212p)